領収書をなくした
先日、学会に出た。オーラル発表をするためだ。
朝、受付で学会参加費を支払い、領収書を発行した。
ぼくは領収書をなくした。
そう言えば、学会から帰ってゴミ箱に捨てた記憶がうっすら残っている。嗚呼、愛しの1,500円。
なぜ学会発表が本質なのに、領収書の管理に気を回さなければいけないのか。領収書を捨てたぼくか悪いのか。
否、悪いのは社会の仕組みだ。こんな世の中くそくらえ、と思う。
ちょっと話が飛ぶけれど、現金とそれにまつわるシステム / サービスって少し不便じゃないかなって思う。
FinTechやビットコインなんかがワードとしてトレンドだけれど、多くの分野で技術革新がなされてる中、なぜ今さらなのだろうか。
もっと早く導入出来たんじゃない?
世の中を便利にしたいんだったら、やらなきゃダメじゃない?
さらに話が飛ぶけれど、仕事というのは誰かがやらなきゃいけないことをやることだ。ぼくはそう考えてる。
だったら不便を感じた今、金融なんかもmajorにしたら面白いのかも(今まではあまり興味がなかったけれど)。そんな風に思った。
ぼくは領収書をなくした。
現状に不満を垂れるのは簡単だけれど、どうにか変えていきたいな。
独りでいること
人っていうのは独りでいることが前置きとして存在するんだ。
ぼくは最近、そう思う。
今、電車で向かいに座る女子大生は「さみしい~」だなんて言ってるけれど、それはマイナスでなくプラマイゼロなだけ。
つまり、君は独りだし、ぼくはもちろん独りだ。
言ってしまえば、みんな寂しい。
好きな人・嫌いな人と出会い、好きな人・嫌いな人と別れる。そうした出会いや別れは自分でどうにかできる時もあれば、そうでない時もある。1人ひとりが自分の意思で行動してるから当然だ。
誰かと一緒にいるのが常じゃない、独りでいる時がニュートラル。
そんな1人ひとりが、ある人には大きくて、ある人には小さなイベントを世界に産み落とす。
そうやって人はくっついたり離れたりする。
そう思うと何だか心強いし、何だか寂しくもある。
つまり何が言いたいのかって?
それはぼくが教えてほしい。
ぼくは根暗だ
ぼくは根暗だ。
しかし、できるだけ明るく努めようという意思はあるし、実際、人当たりもそこまで悪くないと思う。初対面の人からは、コミュ力高いね~だなんて言われることもある。
先日、インターンに行った際、人事の前で声高にハキハキ自分の意見を述べる子がいた。飲み会なんかでも常にニコニコしてて(飲み会はニコニコする所だけれど)、第一印象で苦手だなと察してしまった。
ぼくみたいな人間からすれば、常に明るい人ってどこか不自然な気がする。
そういえば、今までこの人は…ちょっと…と感じた人は総じてそんな人かもしれない。就活という人を要素の塊として見る特殊環境にいるから気がついたのかもしれない。
とは言っても、ずーっと自分の世界に閉じ籠ってる人は相手にしたくないから、まだ元気ハツラツな子の方が好きかな。
昨日飲んだ友達なんかは、暗いとこと明るいとこを持ち合わせた奴ですごく話し易かった。
彼にどこかでシンパシーを感じているのか、はたまた、現代の人間は心と体に多少のギャップがある人を好むものなのか、そんなもの人によってマチマチだと思うけど、ぼくは友達が好きだし、自分が好きだ。
ぼくは根暗だ。
けれど、それで良いと思う。
夢だけで生きていく?
これまで物事の大枠だけを捉えて生きてきた。
高校生の頃から、具体的な内容には一切興味がなくて、進路だって、薬が化合物である事すら知らずに薬学部を選んだ。
これは経済学部に進む人が経済がお金で動いている事を知らない様なものだ。大学に入ってから、「無知だったな自分」と可笑しくなった。
大学に進んでからも同じで、薬や物質の具体名は1つも覚えずに機能の雰囲気だけを学んだ。
これも徳川家康という名前は知らないけれど、江戸幕府を開いた人がいる事、その人がどんな事をしたかについては知っている様なもの。「結局、15歳から成長してないな」と大学院に入ってから思ったのだ。
そんな自分の考え方が好きで、また実際、一番大切な事なのではないかとも思っている。
しかし、これではいつまで経っても、社会に出られないのではないかと最近考える様になった。
つまり、社会は人の具体的な考えや行動から成り立っている。
夢を見たいなら、それを物事の具体的な内容まで踏み込まなければ、社会では実現できないのではないかということだ。
自分は夢見がちなだけなのだろうか。もっと言うと、具体から逃げて評価から逃げているのだろうか。具体に踏み込んでいないから、自分の夢はまだ叶うかもしれない、だなんて考えているだけなのだろうか。
きっとそうなのだと思う。薄々、気がついている。
しかし、はっきり言って具体が嫌いだ。
では、考え方を変えてみよう。
夢だけ見て生きていくにはどうしたら?